“ダメだった自分”を超えたいあなたへ

このブログの全ては、自分を責めていた“あの頃の私”に向けて書いています。

「やんちゃ君とは簡単に約束するな」。その対応、そのスタンス。本当に大丈夫ですか?

【よくある『やんちゃ対応』11の間違い】

Part③:やんちゃ君とは『守れる約束』だけしましょう。もし破ったら信頼関係は崩壊します。言うこと聞かなくなります。

 

「先生、前に◯◯って言ってたじゃん」 

 

この言葉に思わずギクッッ…!とした経験はありませんか?

 

「やんちゃ君への対応策」として広く知られる「やんちゃとは、守れる約束だけをするべき」という教え。

 

一見すると、この"正論"は筋が通っているように思えます。

 

しかし、この"正論"には重大な欠陥があります

むしろそれを信じ込むことで、教室が息苦しい場所になってしまうことに、気づいていますか?

 

私も初任の頃、「安易に約束するな」と教わり、めちゃくちゃ意識していました。

毎日が綱渡りの連続

「言葉尻をとられないように」と、常に緊張感を持って子どもたちと接していました。

 

そんな私の教室は、一年間、子どもたちにとって全然楽しくない空間だったと思います。

ものすごくギスギスしていて寒々しい「キーン…」という雰囲気が、教室を支配していたことを思い出します。

 

自分のせいとは言え、教師である私にとっても苦痛に感じる空間でした。本当に当時の子ども達には申し訳ないです。

 

そもそも、そのアプローチは本当に正しかったのでしょうか?


【追記】たくさんの反応ありがとうございます。閲覧数から勝手に「需要あり」と判断し、この記事を深堀りし、解決ポイントをまとめた記事を書きました。あわせて読むことで、理解と定着度は3倍以上違ってきます(肌感覚)。絶対に読んでください。

 

ノリから出た約束を違えただけで崩壊する"信頼関係"って、本当に"信頼関係"といえるの?

よくネット記事や指導書には、こんな文言が並びます。

 

「安易な約束をしたばっかりに、その約束を破ると、その時点で"信頼関係"を失い、教師の言うことを聞かなくなってしまう」

 

しかし考えてみてください。

 

ノリで言った一言、うっかり出た約束を違えただけであっさりと崩壊する関係

それって本当に「信頼関係」と呼べるものでしょうか?

 

「やんちゃは教師の言葉尻をとってくる」「だから、出来ない約束はしない。できる約束だけする」——この考え方の根底には、「先生は間違えない」「完璧な存在」という前提があります。

 

そもそも普段から「先生は間違えませんから」という学級経営をしていて、しかも「間違って当たり前」「間違いが許される」そういう雰囲気が教室にないこと自体が、本質的な問題なのです。

 

言葉尻をとられて冷や汗をかいた、あの日の記憶

確かに、やんちゃ君あるあるとして「教師の言葉尻をとってくる」光景はよくあります。実際、私も経験しました。

 

  • うっかり「やってみようか」と言っただけで、翌日には「約束破った!」と非難される
  • 「考えておくね」と言ったら「先生、やるって約束したじゃん!」と言われる
  • 「できたら」と条件をつけたはずなのに、「絶対」という言葉がいつの間にか追加されている

 

でも、だからといって一生「揚げ足を取られないようにしなきゃ…」という意識で学級経営をしていくのでしょうか?

 

もっと言えば、そんな教室で子どもは本当に育つのでしょうか?

 

そして最も重要なことは——そんな緊張状態の中で、あなた自身が教師として成長できるのでしょうか?

 

うっかり冗談も言えない、そんな教室の空気

1年目の頃の私には、こんな会話もできませんでした。

 

「先生、1億円あったら何したい?」

「そりゃ、私は優しいからみんなに100万円ずつ配るよ笑」
「えー本当に??絶対ウソでしょ笑」
「もちろん、本当だよ。先生が嘘ついたことないだろ?キリッ」
「いや、結構あるよ笑」

 

こういう「下らない会話」にこそ、信頼関係構築の土台があることに、当時の私は気づけていませんでした。

 

「できない約束はしない」という教えは、シンプルに言えば「教師は常に気が抜けない」状態を強いることになります。

 

ずっと「約束を違えてはいけない」というアンテナをギンギンに張り巡らせないといけない。そんな緊張状態で200日を過ごせますか?

 

正直なところ、いくらこちらが約束を守っても、やんちゃ君をはじめとする児童は、基本的に「約束を破ってしまうもの」です。それ自体に良いも悪いもありません。だって、それが子どもというものだからです。

 

最悪の場合、担任が子どもに対し「私は守ってるのに、なぜあなたは守らないの?」という指摘までしてしまう。指摘しなくても、そう思い悩んでしまうのは時間の問題です。

 

問題の本質は「約束」ではなく「関係性」にある

この問題の本質は、経験不足からくるものではありません。

 

これは「信頼の作り方」「約束を守る対価として『服従』を求めてる」という、人間関係構築に対する捉え方の問題です。

 

「約束したら必ず守れ」という硬直思考は、まるで教師が神様かロボットみたいな発想です。これはやんちゃを「言葉尻をとってくる『敵』」として見ている時点で、もう完全に間違っているのです。

 

教育の本質は、子どもの「成長」をサポートすることです。「約束を守る」「守らない」みたいな表面的な行動ルールではありません。

 

大事な前提は「約束は守るべき」だし、その上で「人間はふつう間違える」こともある、ということ。それを子どもたちにどう伝えていくか、ということが重要です。

 

さらに「どうしても守れなかった場合にどうするか」または「約束を破られてしまった場合、どう対応するか」を学んでいくのも、学校教育の大事な役割です。

 

それこそが「人として成長していく」ということではないでしょうか。


【追記】

そもそも「明日から何をすれば良いのか分からん…」という方のために、知れば明日すぐ取り組める(というか、一秒でもはやく取り組むべき)内容をまとめました。「やんちゃくんとの関係性を新たに構築し直すにはどうすれば良いんですか…?」という相談から書いた記事です。

 

「ご褒美約束」の落とし穴:本当の問題は何か?

教室でよく見られる光景として、「球技大会で優勝したらお楽しみをしよう」といった提案があります。

私自身はあまりこの手法は好きではなく、あまりやったことはありません。

※「一学期頑張ったから、その『お疲れさま会をしよう』みたいな話にはなります。

 

ちなみに、私がこの「ご褒美イベント」を作らない理由は以下のとおりです。

言うまでもなく、学校行事は「行事それ自体がとっておきのご褒美」です。

子どもたち自身の思い出づくりに向けて、子どもたち自身はもちろん、教師としても全力でサポートのため動く」という経験のはず。

とくに「球技大会」「運動会」などはその典型ですよね。

 

それを「優勝したら」という話が出るってことは、普段から行事の意味を子どもたちが分かってない証拠。そこから、学級経営の「浅さ」がにじみ出ているような気がするんです。

 

とは言え当然、優勝を狙う原動力として、何かしらの「ひとつの目標としてのご褒美」を子どもたちから求められる事態はよく分かります。

担任として、「…うーん」と思いつつも、彼らの喜ぶ顔が見たい一心で「よし、優勝したら、なにかしようか!」みたいに言いたくなる気持ちも、教師としては当たり前だと思います。

 

問題なのは、そういう場面で当たり前に「焼き肉!」とか「お菓子パーティー!」みたいな『現実的に難しそう』な案が出る、という現象。

 

さらに言えば、「先生、ウチのクラスが球技大会で優勝したら◯◯して」あるいは「◯◯しよう」「◯◯ちょうだい」みたいな話題が出てくる「学級の雰囲気」の方を疑うべきです。

 

もしテンションが上がって、子どもの中から出てきた言葉に対し、他の子どもが誰も「それは楽しそうだけど、無理でしょー!笑」みたいな軽いノリで流せる雰囲気がないことも、再考すべき問題だと思います。

 

普段、担任が「行事の意義」についてしっかり伝えてない。もしくは語っていても子どもたちには伝わってない、ということだからです。

※以下に詳しく書いてます ↓ 

www.teacher-trigger.com

 

話を戻すと、そもそも冗談を言えない関係性や、あとから「やっぱ、無理だったわ。ごめんな」と言えない媚び感自体が問題ではないか、という話でした。

 

「間違ったことを言えない」

「迂闊に約束もできない」

「冗談も通じない」

そんな綱渡りなギリギリ極限状態で200日を過ごせますか?

そんな教室で、楽しいんでしょうか?

 

きっと、楽しいのは「私のクラスは誰も不満をこぼさない」と思ってる担任だけでしょう。

 

科学的に見た「信頼関係」と「約束」の本質

以前読んだ本(残念ながら出典は忘れてしまいましたが)によると、信頼関係の構築には「オキシトシン」というホルモンが深く関わっているそうです。このホルモンは、「愛情ホルモン」「絆ホルモン」とも呼ばれ、人との触れ合いや温かいコミュニケーションによって分泌されるものだとか。

 

上記のような学びをきっかけにして、私は信頼関係について考え直した経緯があります。デール・カーネギーは著書『人を動かす』の中で、「人間関係の基本は相手への理解と尊重である」と説いています。約束を守ることよりも優先されるべきは、相手の感情を理解し、尊重する姿勢なのです。

 

重要なのは、約束を100%守ることではなく、誠実なコミュニケーションと互恵的な関係性の構築なのです。

 

具体的な実践法として:

  1. 約束が難しそうな場面では「チャレンジしてみるけど、もし無理だったらごめんね」と正直に伝える
  2. 間違えた場合には素直に「ごめん、約束したのに守れなかった」と謝る
  3. あえて小さな失敗を認める場面を作り、「先生も間違えることがある」という人間らしさを見せる

 

これにより「互恵性の法則」が働き、子どもたちも自分の失敗を素直に認められるようになります。完璧を求める教室よりも、失敗を許容し合える教室の方が、子どもたちは心理的安全性を感じ、より大きく成長するのです。

 

あなたは「約束の奴隷」ではなく「伴走者」である

短期的な効果がすぐに期待できる(?)手法のひとつとしても、「できない約束はしない」「できる約束だけする」という手法は、あまりに「浅はかなテクニック」と言わざるを得ません。

 

経験が少ないからこそ、そういう視点はすぐに見直した方がいいです。

 

少なくとも、「守れない約束はしないって、まあ人として基本的なことだよな」ぐらいに頭の中に入れておくぐらいでとどめておき、「やんちゃ君に効果的な手法」と考えるのは辞めたほうが良いでしょう。

 

あなたは『約束の奴隷』ではなく、子どもと共に成長する『伴走者』。

 

子どもと一緒に走り、常に彼らの様子を気にかけ、観察し走っていくからこそ、児童とは圧倒的に見る視点が変わり、チーム全員を伸ばす・成長をサポートする基礎体力がついていくのです。

 

「自分の成長に注力するのか」

「チーム全員の成長に注力するのか」

 

それが子どもと教師との本質的な役割の違いであり、そこに差異も生まれるし、信頼感も生まれます。

 

そしてそこから「担任としての権威性」も自然ににじみ出てくる。

これは前回の記事にもつながる重要な視点です。 ↓ 

www.teacher-trigger.com

揚げ足を取られることを恐れて、約束しただのしなかった云々の話にこだわるから、教師としての余裕は削られていきます。大きな視点で見れないから、児童の成長可能性を狭めてしまうのです。

 

完璧な約束者ではなく、誠実な関係性を創れる身近な大人になりましょう。

 

あなたは子どもの可能性を最大限広げられる、本物の教育者の一人なのですから。

 

 

※次回は「やんちゃよりやんちゃになる」という"対応法"について考えます。

"やんちゃとの勝負に1つでも勝てれば、やんちゃ君は先生に従うようになる"は本当か?

 

追伸

私が初任者だった頃、クラスには「カズキ(仮名)」という男の子がいました。彼は本当によく私の言葉尻をとって笑いものにしていました。

「先生、今日は図工あるって言ったじゃん!嘘つき!」 「先生、プリント配るって言ったのに、まだ待ってるよ〜」

最初は必死に弁解していました。「言ってない」「そんなつもりじゃない」「勘違いしてる」と。でも、それが余計にカズキの反応を強めていたことに気づいたのは、ずっと後のことです。

ある日、気付いてしまったんです。「何で、彼は私の言うことを逐一覚えているのか?」「なぜそれを、私の揚げ足を取る形でみんなに公表するのか?」

 

理由は、シンプルでした。

「私の話を流さず、しっかり聞いてくれている」と「彼は聞いてくれてるのに、私は『言う事を聞かせる』ことばかりに夢中になり、彼の話をなんにも聞いていなかった」からです。

 

「いや俺、ふつうに人権侵害してるやん…」

 

マジで、自分自身に対しそう吐き捨て、そのあと絶望しました。「良いクラスを作ろう!」と熱血で燃えてるフリして、私はただ「言うことを聞いてくれる彼ら」に対して自己満足に浸っていただけでした。

 

それからは、私もカズキとの関わり方を変えました。「あ、そうだった!カズキごめん、先生うっかりしてた!」と素直に謝るようになったのです。不思議なことに、そうやって素直に認めるようになってから、カズキが私の言葉尻をとることは激減しました。

 

そして年度末、最終日の宿題(連絡帳)に、カズキから小さなメッセージをもらいました。「先生は間違えることもあるけど、楽しい先生でした」という内容。

 

私たち教師が完璧である必要はないのです。むしろ、間違いを素直に認められる「人間らしさ」こそが、子どもたちとの本当の信頼関係を築く基盤になるのではないでしょうか。

 

きっとあなたのクラスにも、担任のことをよく見ている子がいるはずです。その子は決して「敵」ではなく、あなたの言葉に耳を傾け、あなたと共に成長したいと願う大切なパートナーなのです。