【よくある『やんちゃ対応』11の間違い】
Part②:やんちゃ君には、「先生の権威」を見せましょう。
先にお伝えしておきましょう。
やんちゃ君に「権威を示す」は、間違った対応です
「先生はやんちゃ君に対し、権威を見せましょう」。
教育関連の本やネットで「やんちゃ 対応」と検索すると、必ずと言っていいほど目にするフレーズ。
検索上位に出てくる記事には、決まってこんな「対応策」が並んでいます。
「権威性とは『先生と生徒は違う』という姿を子どもの前できっぱり見せることです」「先生は最終責任者であり決定者、としっかり子どもに示す必要があります」
こうした言葉を目にするたび、強い不安と違和感に襲われるのは私だけでしょうか?
確かに、「権威性が必要」自体は間違っていません。
全体を貫く「教師の姿勢」も必要です。
「生徒と先生は違う」「最終責任者であり決定者」という考え方も、ある意味では正しい。
でも、それらの記事や書籍にかかれていることは大きな間違いだと私は思っています。
それがゆえ、現場でも大きく誤解されている風潮がある。
それは、権威性を『先生に従いなさい』とやんちゃ君に思い知らせることと勘違いしている点。
これだと、やんちゃと必ず戦う状態になってしまいます。
はじめのうちは通じるかもしれません。でも正直な話、もって1週間です。
「従わせる」という概念で1日8時間、200日の長期生活は、あまりにも長すぎる。
そして、何より「教育的でない」。
この一言に尽きます。
というか普通に効果的ではないです。
これがタイトルにあった「たった1つの理由」。
(2つになってしまってるかも)
「子どもには愛情をもって接するべきだ!」というキレイゴトを今更言うつもりはなく、あくまでも現場で痛感してきた事実をもとにして、以下つらつらと書いていきます。
※これはこの記事の続編です ↓
なぜ「言うことを聞かせる」アプローチではダメなのか
多くの教育書や教育記事で、マジで推奨されているこんな指導法。
「目を先生に向けなさい」
「手に持っているものを置きなさい」
「おへそを向けなさい」
「身体を先生に向けなさい」
さらに「だらしのない服装をしない」「自信たっぷりに見せる」「弱い姿を見せない」といった助言も。
意図はわかります。
担任がクラスの主導権を握る必要性も、当たり前に知っている。
が、これらの指導のマズイ点は、これらの指示が、すでに「戦っている」状態であるということ。
効果があるのは学級開きの2日目の途中まで。
3日目からは次第に聞かなくなり、早くも戦う体制になってしまいます。
あるいは、こういう指導も数回なら必要かもしれません。
が、私はこういう表面的かつ教育的でない、浅はかな方法が、「効果的なやんちゃ対応方法」として紹介されていることに危険性を感じているのです。
過去、後輩からこう相談を受けたことがあります。
「4月は上手くいっていたのに、5月になってクラスがバラバラになってきました。毎日『話を聞きなさい』『姿勢を正しなさい』と言い続けていて、疲れ果てています...」
彼は真面目で熱心な先生です。だからこそ、「権威を見せなければ」と必死になっていました。
そもそも「権威性」とは何でしょうか?
子どもの心を動かす本当の「権威」とは
権威性とは、けっきょく「児童にとって、教師が『何者か』であること」と言えます(辞書的な意味合いは脇に置いて、実際の教室での話をしてます)。
多くの記事や教育書が間違ってるのは、
「だらしのない格好/児童に弱みを見せる、といった外見や態度 = 権威性の失墜」だという考え方です。
もちろん、社会人として基本的なマナーは大切でしょう。でも、それは普通に「大人としてどうなの?」みたいなことであって、これが出来たからと言って権威性には繋がらないし、逆に、出来なかったからと言って権威性が落ちる…というわけでもありません。
だからと言って「だらしない格好でOK」ということではなく、そもそも「権威を保つ = 教師の強さ、凄さを見せつける」という捉え方が間違っているということです。
そうした表面的な部分より、もっと本質的なものが「教師の権威」を形作っているのです。
「常に強い自分を見せ続ける」ことが「教師の権威性」につながるわけではありません。それだと、必ずいつか対立が生まれます。
5月の教室で起きる「押さえつけ限界」の現実
5月病。学級崩壊の始まり。
これまで通り「先生の方にオヘソを向けなさい」といった瞬間、渋々体のみこちらを向けるが、視線はうつむいたまま全く合わない。周りではニヤニヤ笑ったりヒソヒソ話す声が聞こえてくる。
「手に持ってるものを置きなさい」「置くまで待ちます」と毅然と言い切っているはずなのに、手いじりを全く辞めない彼。
「権威を見せる」アプローチで押さえつけていた教室では、必ずこういう瞬間が訪れます。
私も経験しました。
初任の頃、「この子たちを絶対に良いクラスにしよう」と意気込んで、毎日「聞きなさい」「座りなさい」「静かにしなさい」と言い続けた結果...
2ヶ月後には教室の空気が変わり、子どもたちの目から信頼の光が消えていました。
そして、それは次の担任にも引き継がれ、学年が上がっても「問題児」のレッテルが貼られ続けるという負の連鎖を生みました。
何より、やんちゃな子ども自身の成長に何も繋がっていなかったのです。
「管理」は「次への先送り」であるという事実
なぜこうなるのか。
その原因は「教師 = 正義」「やんちゃ = 悪」という誤った図式にあります。
もともと、やんちゃな子も児童の1人。彼も含めて、クラス全員を「成長」に向かわせるのが教師の役割です。
「正義が悪を支配下に置く」という構図になっている限り、または「やんちゃ = 取り締まるべき悪」と考えている限り、やんちゃとの対立は永遠に続きます。彼が成長する機会は大幅に削り取られるでしょう。
それこそまさに「担任ガチャ」の世界です。
管理のみでは課題は解決されず、次の学年で再度繰り返されるのみ。
信頼関係から生まれる「やんちゃ君の変化」
では、どうすればいいのか。
答えは、教師はやんちゃ君のエネルギーの向きを「クラスを成長させる方向に変える」ことです。
まずはそこから始めていく。
大まかに言えば「君の成長が、クラス全体の成長につながる」というイメージをしっかり伝えていく、ということです。
本当の権威は「従わせる力」からではなく、「子どもの可能性を信じる姿勢」から生まれる。
例えば、こういう事がありました(というか、何度もありましたが)。
私は、1学期のクラスお楽しみ会の司会を、一番のやんちゃ君に任せました。
「君が盛り上げてくれると、クラスメイト全員が楽しめる。普段から君が友達を笑わせよう(=笑顔にしよう)としてくれていることを、私は知っているんだ」と伝えたのです。
最初はふざけ半分だった彼でしたが、徐々に真剣な表情になり、本番では想像以上に立派に司会をやり遂げました。
※司会でなく「演者」としてサプライズでお笑いをやった年度もあります。毎年、本人の希望を聞いて裏で進めます。
クラスメイトからの拍手。それが彼の自信になり、少しずつクラスへの所属意識が芽生えていったのです。
このとき重要だったのは、担任が「彼の自信をつけるための舞台を用意した」ということ。
そのための「裏の動き」が必須なのです。
これは「クラス児童34人の目の前で、担任がやんちゃをぶっ倒す」という概念とは明らかに真逆であることが伝わるでしょうか?
どんな児童も、成長したいと思っている。
少なくとも「称賛されたい」「自分のことを認めてほしい」と思っています。
「やんちゃを担任の支配下に置く」という考えでは、本当の意味での「変化=成長」は絶対に見込めないです。
子どもの強みを見つけて役割を与えることは、子どもの本質的な成長欲求を満たし、本当の権威の源泉となります。
「この掲示物、センスがいい人に貼ってほしいんだけど...」「先生はこういうの疎くて...」と、教師が素直に子どもの力を認め、活かす場面を作りましょう。
やんちゃな子ほど、秘めたエネルギーと可能性を持っています。
教師の「弱さ」が、時に最大の武器になる
現場ではよく「権威を保つために弱い姿を見せるな」と言われますが、むしろ、適切な「弱さ」の開示こそが、本当の信頼関係を築く基盤になることがあります。
「先生も分からないことがある。一緒に調べよう」
「ごめん、先生、そこは間違えたね。ありがとう、指摘してくれて」
こんな言葉を、自信を持って言える教師こそが、本当の「権威」を持っているのではないでしょうか。
なぜなら、子どもたちは見抜いているからです。
教師の誠実さを。教師の本気( = ガチ)度を。
間違いを認められない「完璧な先生」より、正直に向き合ってくれる「本物の先生」に、子どもたちは心を開きます。
明日すぐにできる「教師が何者か」になる方法
では、具体的にどうすればいいのか。
たくさんのアプローチがありますが、この記事では特に重要と思われる「子どもを労う」という視点についてお伝えします。
子どもの頑張りを労うことは、教師の「何者か」としての存在を確立する上で核心的な役割を持ちます。
人は基本的に「自分を重要視してくれる人は、自分にとって重要な人物」とみなします。
※この本に詳しく載ってます ↓
つまり「君の頑張りはいつも見ているし、それは君の成長にとってポジティブなことだと思っている」という価値を伝えていくことで、お互いの関係性は深まっていく。
例えば「今日の授業中、発表はできなかったけど、真剣に考えてたよね。あの姿勢、先素敵だと思ったよ」といった言葉かけ。
これは脳科学的にも裏付けられています。人間の脳は、自分の努力や存在を認められると「セロトニン」や「オキシトシン」といった幸福感をもたらす神経伝達物質が分泌されます。
この生理的反応が、教師への信頼感と尊敬を自然と高めていく(と、私は経験上思ってます)。
さらに重要なのは、これが何もやんちゃ君に限った話ではなく、児童に限った話でもないということ。
人間の本質なのです。子どもも大人も一緒。全く同じ。
あなたは、自分の大切な人に「いつもありがとう」「お疲れ様」と言いますよね?
つまり、労ってるわけです。
大人にすることと同じレベルで、普段から頑張っている児童に対してねぎらいの言葉があっても良いのではないでしょうか?
この「労い」は、表面的な「褒め言葉」とは異なります。
実績や結果だけを褒めるのではなく、その子の存在や努力そのものを認める姿勢が大切。
「結果を出せなくても、あなたの頑張りには価値がある」というメッセージが、子どもの内側から行動を変化させる原動力となります。
もちろん、一回や二回やるだけですぐ効果は見られないこともある。
教育は魔法ではないです。
でも、「積み重ね」なんです。
これらは確実にやんちゃ君の心に積み重なっていきます。
なにより、奥底に「子どもへのリスペクト」をもった接し方であるため、「従わせる」方法と比較するとよっぽど教育的です。
この方法だけでうまくいくわけではありません。
再度言いますが、教育は「積み重ね」「繰り返し」の賜物。
何度も「適切な方向性で」積み重ねていかなければなりません。
その方向性について、今後の記事でもしっかり、具体的にお伝えしていきます。
「何者かになる」ことは、かなり奥深いものです。
この記事だけでは言い尽くせません。
もっと知りたい方はぜひコメント等で教えてください。
※なにかご相談あるかたも、ぜひご連絡下さい^^
"友達先生"の落とし穴にも注意
また、これは「友達先生」になれと言っているわけではありません。
私も、「先生と生徒は違う」というのは正しいと思ってます。
立場も責任の重さも、まったく違う。
そもそも、比べるのがおかしいレベル。
けれど、その違いは「支配と服従」ではなく、「成長をサポートする者と成長していく者」の関係であるべきです。
※この記事で両者の関係性について言及してます ↓
権威を保つための「形式的な強さ」ではなく、子どもの成長を信じる「本質的な強さ」が必要なのです。
(「友達先生」の落とし穴については、また別の記事で詳しくお話しします)
教師に必要な「権威性」の正体とは
この記事でお伝えしたいのは、「権威は地位からくるもの」ではない。
子どもへの理解と成長への情熱から生まれるもの、ということです。
「従わせようとする教師」より「成長を信じる教師」の方が、結果として子どもたちから真の尊敬を得られるでしょう。
それは時に、遠回りに見えるかもしれません。でも、その遠回りこそが、教育の本質ではないでしょうか。
あなたは明日、教室で何を見せますか?
「従わせる権威」でしょうか?
それとも「成長を信じる権威」でしょうか。
PS.
若手の頃の話です。学級開きから1ヶ月が経ち、クラスの空気が少しずつ変わり始めていました。
特に気になっていたのは、後ろの席のタクヤ(仮名)。授業中、絶えず小さな騒ぎを起こし、私の「静かにしなさい」も一時的にしか効かなくなっていました。
ある日の放課後、私は職員室で先輩教師に愚痴をこぼしました。 「タクヤが言うことを聞かなくて...。もっと厳しく接した方がいいんでしょうか」
先輩は少し考えてから言いました。 「厳しさも必要だけど、それだけじゃ長続きしないよ。あの子、図工得意だろ?」
確かに、図工の時間のタクヤは絵が得意で、集中して作品を作りに取り組む様子が印象的。むしろクラスが集中して取り組むためのムードメーカーになっていました。
翌日、私はタクヤを呼び止めて話しかけました。
「タクヤくん。ちょっと良いかい?」
「今日の算数の学習。とても大事な公式だったから、しばらく画用紙に書いて掲示しておこうと思うんだ。」
「でも、ただ公式を書いても、誰も見る気にならない。今日の授業も、みんな集中しきれてなかったの、分かるよな…?」
「そこで。拓哉はイラストのセンスがあるだろ?先生に変わって、この公式が書かれた画用紙に、『みんながつい注目したくなるようなイラスト』を追加してくれないか?」。
タクヤは最初「えー、めんどくさい」と言いながらも、目の奥にはウキウキの火が灯ってるのを感じました。そして話を進める私に対して次第に目を輝かせて「じゃあさ、こんな感じはどう?」と、アイデアを話し始めました。
「おぉ…ありがとう!やっぱタクヤは凄いな!明日が楽しみだ!頼んだぞ!」
タクヤは次の日、見事「大きく誇張された担任が、公式を喋ってるようなフキダシ」を追加して、みんなの注目を集めてくれました。どんな風刺画だったのかはご想像にお任せしますが...。
すると不思議なことに、授業中の小さな騒動も減っていったのです。
「先生。昨日さ、◯◯のイラスト描いたよ」
彼がそんな話をしにきてくれる場面が増えた頃、私は自分の「権威を守ろう」とする姿勢が、実は彼との壁を作っていたことに気づきました。
あなたの教室にも、きっと「タクヤ」がいるでしょう。彼らは、単なる「問題児」ではありません。未来の可能性を秘めた、成長途上の存在なのです。
明日の教室で、その子の「強み」に目を向けてみませんか?
子どもたちは私たち教師の姿勢を見抜いています。「管理したい大人」なのか、「成長を信じる大人」なのか。
その選択が、教室の空気を、そして子どもたちの未来を変えるのです。
子どもにとっての「何者か」である教師。それは権力を持つ存在ではなく、可能性を信じ見守る存在であるはずです。