“ダメだった自分”を超えたいあなたへ

このブログの全ては、自分を責めていた“あの頃の私”に向けて書いています。

教室で『依存 = 生存戦略』に気付かされた話

先日、Quoraで「人に依存的かつ執着をしやすい人の特徴を教えてくれませんか?」という質問に答えさせてもらう機会がありました。

jp.quora.com

思いがけず多くの方から反響をいただき、
驚きました。


このとき感じたのは

 

けっこう多くの人が『当事者』なのでは…?
ということ。

 

そして実は
私自身も当事者『ど真ん中』だった
ということです。

 

ちなみに、私はこんな人間です ↓ 

www.teacher-trigger.com

 

Quoraの回答で書いたように、依存や執着は単なる
「克服すべき欠点」ではありません。

 

あなたがもし自分の依存傾向に苦しんでいるなら、
そうは思わないでください。

 

教室で多くの子どもたちと接してきた
私なりの理解を、少し紹介したいと思います。

 

教室で見てきた『依存するタイプ』の児童たち

小学校の教室には、
さまざまなタイプの子どもたちがいます。

その中でも、ある特徴を持った子どもたちの姿は
強く印象に残ります。

 

  • 常に笑顔で、担任の目をしっかり見つめ
    「これでいいですか?」と不安げに確認してくる女の子

  •  休み時間になると真っ先に教卓に駆け寄り、
    「先生、今日の給食当番、僕がやりますよ!」と
    熱心に手伝いを申し出てくれる男の子

  •  発表するたび「先生、見ていますか?」と
    教室の隅々から視線を送り、
    認められたい思いが溢れ出る子

 

彼らの表情をよく観察すると、
笑顔の裏に潜む不安の影が見えてきます。

 

手伝いを申し出る声の震え。

 

認められることへの切実な願い。

 

これらの子全てに当てはまるわけではないし、
そもそも子どもというのは

「見られたがり」「認められたがり」
なのが普通(もちろん大人も)です。


ただ「教室」では、その中でも
特に繊細な感覚を持った子が

ある程度はっきり見えてくるんですね。

彼らは一見、「よくできる子」「頑張り屋さん」と
周囲から評価されますが、その心の奥には

ある共通した「痛みのようなもの」が
隠れているように思われました。

 

 

表面上の「よくできる子」と、その裏側にある不安の構造

私は心理の専門家ではなく、
あくまで教室での経験則に基づく見解ですが、

 

こうした子どもたちの行動の根底には、
共通点があるように思います。

 

それは

自分の存在価値を、
外部からの評価に依存『し過ぎている』

ということ。

 

よく考えてみると、
彼らの行動は、次のような
特徴があったように思います。

  • 自分の存在や行動を「これでOK!」自分で確信できていない
  • 『見てもらえる瞬間』にこそ、執着する
  • 否定されないよう、正解だけを選んで動こうとする

これらは単なる
「性格」や「甘え」ではないです。

 

私は一種の生存戦略だと捉えました。

 

彼らにとっては、
自分の存在価値を確かめるための
『切実な生き残り方法』なんですよね。

 

教室の片隅で黙々と課題に取り組む女の子が、
ふと顔を上げて教師の目を探す瞬間。

 

「先生、ちゃんと私の頑張りを見てくれてますか?」


という無言メッセージが、その目から
強く伝わってくるのを思い出します。

(ちなみに、私の小学2年生の甥っ子もこんな感じです^^)

 

 

教師なのに、私も実は『承認依存型』だった

実は、このパターンに気づいたとき
ハッとしたことがあります。

 

実は私自身も
似たような構造の中で生きていたからです。

 

・完璧な授業を目指し、

・子どもの授業への反応に一喜一憂し、

・管理職や同僚からの評価を気にする。

・「よい教師」であることに執着し、

・失敗を極端に恐れる。


まさに、ド真ん中の『承認依存型教師』ですね・・・

 

ある日、授業研究会での批評を受け
落ち込んでいた私に、先輩が言った言葉が忘れられません。

 

「お前さ、誰のための授業だったん?」

「指導案終わらせるためか?」

「子どもの目、◯んでたぞ」

 

夜のお酒の場で、
冗談飛び交うなかでの会話とはいえ

その問いかけにギクッ…とし、

しばらくの間、冷や汗が止まりませんでした。

 

普段の授業の様子をザーッと
思い出してしまったんですね。

 

その言葉には、ほんとうに全身が震えました。

 

「子どものため!」

「良い授業するため!」

「そのために頑張る!」と思っていた

熱心さの奥底にあった、自分の『浅さ』。

 

実は「良い先生だと認められたい」という

自分の欲求が潜んでいたことに気づいた瞬間でした。

 

生存戦略」としての依存行動を理解する

私と子どもたち、そして
多くの大人たちが抱える依存と執着。

 

それは「甘え」や「わがまま」ではなく、

「生きるための戦略」なのかもしれません。

 

  • 自分の価値が見いだせない不安
  • 関係性の喪失への恐怖
  • 自己否定の深い傷

こういうのってたぶん、
幼い頃から蓄積されてきた

「本能からくる適応戦略」だと思うんですね。

 

つまり、その行動パターンは、

 

これまでのあなた、そして私が
生き抜くために必死で編み出した知恵

だと思うんです。

 

だからこそ、

「依存してしまう=ダメな証拠」ではない。

 

「必死に愛されようと努力した結果」として、
その痛みをごまかさず受け止める価値が

十分にあります。

 

 おわりに

長くなりましたが、結局、
お伝えしたいことは以下です。

 

「見てほしい」という思いは、決して恥ずかしいものではありません。

 

きっとそれは、これまでの人生であなたが
必死に生きようとしてきた成果です。

 

その思いを排除することだけに囚われず、
少しずつでも、自分の中に「私はこれでOKなんだ」

みたいな確信を大きくしていけたら、

きっと今よりも楽な気持ちになれるはずです。
(私がそうでした)

 

ちなみに、以下は「教室で『どうしても救えなかった子』」という内容の記事です。

今回と非常によく似たテーマで、学校教育の「永遠の課題」と言えるかも知れません。皆さんは、どう思われますか?コメント等で教えていただけると、学びが深まりとても有り難いです^^

www.teacher-trigger.com

 

皆さんの中にある「生きようと闘っている証」を、どうか優しく受け止めてあげてくださいね。

 

PS. 放課後の教室で気づいた小さな変化

いつも「先生、見て!」と言って私の承認を求めていた児童のことです。

ある日、その子が静かに自分の作品の仕上げをしていました。終わりのチャイムが鳴り、周りの子たちが帰り支度を始めても、彼は黙々と自分の絵を描き続けていたんですね。

私が「もう帰る時間だよ」と声をかけると、彼は少しビックリした様子で「先生、気づかなかった。絵を描くの、めっちゃ楽しいね、ハマったかも!」と言ったのです。

その瞬間、私は胸が熱くなりました。「見てもらう」ために描いていた絵が、いつの間にか「描くこと自体」が楽しいものに変わった瞬間でしょうか。

教師として、私たちは子どもたちの「見て!」に応えながらも、いつか彼らが私たちの目を求めなくなる日を密かに願っているのかもしれません。それは彼らが自分自身の目で、自分の価値を見ることができるようになった証だから、ですね。

教室の中の「依存」と「自立」、皆さんはどう思いますか?

子どもたちの依存行動から見えてくる人間理解について、皆さんはどのようなことを感じましたか?

「依存と自立の間にある境界線」や「教室で見た子どもたちの変化の瞬間」など、このテーマにご関心があれば、ぜひコメント頂けたらと思います^^

反応が多ければ、次回の記事でさらに掘り下げてみたいと思います。

あなた自身の経験や思い、疑問など、どんなことでも歓迎いたします!共に学び、成長していける場になれば嬉しいです。

 

また次の記事でお会いしましょう!